人は手痛い失敗からこそ、何かを学ぶ。
乗り越えられぬならそれまでだが、俺は乗り越えた。原因は自分だけにあり、妻は関係なかった。
身勝手は重々承知だが、今言える事は「俺は乗り越えた」と言う一言。そう、思っていた。


調練帰り、朱富の店に寄った。
月が満ち空気が澄んだせいか月明かりが眩しく、冷たい空気で湖一体は霧が立ち込め不気味な夜だったが、それだけだった。
普段と目立った変わりはない。

「いらっしゃい、林冲殿」

朱富は前と比べて幾分やつれて見えた。

「あぁ……今日は何かあったのか?」
「珍しい人が来てるだけですよ」
「珍しい……?」

明かりの灯る室内をぐるりと見渡す。時間も時間なので人は疎らだ。だがその一角、明らかに他と雰囲気の違う二人組が居た。

「秦明……」

そこに居たのは史進と秦明。史進は良い、今日も遊撃隊と調練を一緒にやったりもした。だが秦明は。

「二竜山で何かあったのか?」
「林冲、いきなり挨拶もなしにそれか。大体何かあるようならわし自ら来るわけがなかろう、少しは考えろ」

老齢の将が焦点の合わない目で睨みをきかせてくる。やけに酔っている。俺はすぐに会話の矛先を史進へ向けて横に座った。
ここで霹靂火の本領を出されても厄介だ。

「……俺を盾にしたな」
「気付いても気付かないふりをしろ」
「全く」

やれやれとわざとらしく首を振る史進を余所に、卓上の酒を空けてゆく。

「自分で頼めよ」
「勘定の時に帳尻を合わせれば良いだろう。小煩い事を言うな、お前は公孫勝か」

史進は、勝手にしてくれ、と言って手酌で酒を煽った。まだ顔は素面にしか見えない。

「林冲!」

つんざくような声が響いた。
分かりきった声元を見れば、盾の筈の史進は上手い具合にのけ反って、更には耳もしっかり押さえて壁に寄り掛かっていた。
そのしたり顔を軽く睨んでから秦明に向き直る。明日の調練、覚えていろよ。

「何だ」
「お前はいつもいつも公孫勝公孫勝と罵る代名詞のように使うがな」
「仕方がないでしょう、実際嫌な奴なんですから。それにあいつだって似たような事を言っている気が」
「お互い止めろと言っているのだ、せめて節度を知れ。互いがいない時に引き合いに出すな」
「……分かった」
「いや、分かっていない。年長者を馬鹿にするな、この場を言い逃れようとしているだけだろう!」

図星ではあった。あったのだが。




結局、史進がいつの間にか逃げ出したせいで俺は明け方まで秦明に付き合う羽目になった。
素面では付き合いきれん、と俺自身もかなりの量を飲む事になり、酔いは日が登り始めても覚めなかった。

(まずいな、とりあえず屋敷で仮眠を……)

お気をつけて、と笑い含みで言う朱富の声がぐわんぐわんと良く分からない位響いていた。
足元が覚束ない。よく分からない小石に蹴躓いて、たたらを踏む。次の一歩は木の根を踏んで、どうやら滑ったようだ。
木の幹に捕まって、ぼんやりと崖下の湖を見る。冷たい空気と合間って、いくらか調子が整った。

(おや……?)

崖下に人影が見えた。誰か、と思って瞬時に理解した。酷く目立つ白い髪に、病的なまでの白い肌。徹底された無表情。

(何をしてるんだあいつは)

しばらく見ていると、いつの間にか公孫勝は消えていた。幻でも見たのだろうか。

「何をやっているんだお前は」
「……っ!何処から!」
幻がいきなり眼前に。
「何処って、崖からだが?」
「崖だと?」

崖、崖と頭で反芻してやっと思い立った。こいつは致死軍とやらで、異常としか言えない奇妙な身体能力を持っているという事。
切り立った崖を登るなど朝飯前だ。

「あれだけ見られれば気にもなるだろうが。気に食わないなら……それより何だその情けない格好は」
「秦明に付き合わされただけだ。お前には関係ない」
「関係ないならじろじろと見るな」
「俺は見てない!」

きぃん、と鍔ぜり合いのような音がして、頭の中で派手に響いた。
気が付けば体を公孫勝に支えて貰っていた。支えられた体が震える。
寒い季節だと言うのに、体中に冷や汗をかいて余計に寒くなってしまったようだ。

「豹子頭林冲が聞いて呆れる」
「煩い」
「何でも良いが重いから手を離すぞ?勝手に立て」
「待ってくれ」

公孫勝の袖をぐい、と引っ張る。何故か酷く大袈裟に反応して俺を見た。

「立てん」
「……」
「一人では立てん」

皆まで言わせる気か。こいつは心底意地が悪い。滅多に表情など作らないくせに、今はわざとらしく驚いた顔をしている。

「だから屋敷まで……一目につかないように、運べ」
「……」

いつものような罵りはなく、驚き顔を何故かばつの悪そうな表情に変えて、道なき道へ歩を進めた。

(珍しく百面相だな)

目を泳がせたり、見開いたり、そういった変化を初めて見た。
こいつも人並みの表情を作れるのか、そう思ったが、普段それを出さない理由は分からない。
結局その結論を出す前に、何処を通ったのか、自室の側の廊下に公孫勝は立っていた。
人どころか、建物すら他の物を見なかったように思う。

「ついたぞ」
「見れば分かる」
「では降りろ」

自室の椅子に座らせるように、公孫勝は俺を降ろした。
また、見た事のない表情をしていた。

「お前、表情を変えられないわけじゃないんだな」

思った事をただ口に出しただけだ。
いつもの罵倒を予想していた。だが、この純粋な疑問に、公孫勝は一拍の間を置いてから口を開いた。

「一つ聞きたい」
「……」
「林冲、お前は私をどう思っている」

少し、苦しそうな声だと思った。
「どうって、いけ好かない奴だと思っている。
ただ……そうだな、一応仲間だとは思っているが……本人を目の前にしてこれ以上言えるか。何が言いたい、公孫勝」
「では質問を替える。私が死んだら、お前はどうする」

刹那、俺の耳は焦点をずらして、屋敷の外の馬のいななきを聞いた。
百里風だろうか、いや、もしかしたら馬のいななきではなく鳥の鳴き声だったのかもしれない。
酷く混乱した。
公孫勝の求めている事が分からなくなった。
分からなくなった途端、何故かこの場が重苦しさを持った。

「……せいせいしたと、笑うかもしれんし、泣くかもしれん。死に様も分からん今、どうなるかなど分かるわけがない」
「そうか」

そうか、ともう一度呟くと、いつもの無表情に口許だけを歪ませた不快な笑い顔を作って俺を見下ろした。
そして、俺の口が開きかけるのを見ると、踵を返して部屋を去った。
扉を閉める間際、躊躇いがちに小さく振り返って何かを言ったようだが、聞き取る事は叶わなかった。
そのはずなのに、俺には公孫勝の言った言葉が分かっていた。


「お前が死んだら、私は泣くぞ」


額面通りの意味の奥に隠された意図は、分からない。
だが、今は忘れた筈の妻の顔が、急にありありと思い出された。
李富に捕まった後に感じた、その気持ち。
生きていると聞かされ、持ち場を棄てて百里風と駆けた時の焦り。全ては後悔と共に封印したもの。

『林冲、お前は公孫勝より性が悪い。所構わず罵り合うのは同じだが、毎度仕掛けているのはお前だ。
言葉を使いだすのは公孫勝の方が先かもしれん。だが、お前はその時の自分の目を見た方がよい。
仕掛けてくれと言わんばかりにぎらぎらと輝かせているぞ。いい加減幼くないのだから……』

秦明が酔った勢いでぐだぐだと話した言葉を思い出した。
俺は、分からない振りをしたかっただけなのかもしれない。



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公孫勝×林冲です一応。何か公孫勝→林冲感漂ってるけど。
時間軸は11巻〜17巻位って感じ。




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