「ほら、これで同じ。たいしたこと、ないよ」 左目に刀傷をつくり、痛々しい様を見せながら、少年はにこりと微笑んだ。 「たわけ、それでは反対じゃ」 罵る少年も、ほんの少しだけ笑っていた。 【春眠、覚める時】 うららかな陽射しの中、一人の男が静かな寝息を立てていた。 至る所に古傷を持つ男はがっしりとした体格をしてはいたが、北国生まれ故か肌は白く。 表情もどこかあどけなさを残していた。 時間が止まったかのように太陽は動かない。天高くから無表情に地上を照らすだけだ。 無表情なのにも関わらず、それは温かく、居心地が良い。 ふわ、と暖かな風が男を撫で、誘われるかのように目を覚ました。 「んー…」 ざっくばらんに結わえられた髪をかきながら、男は体を起こす。 男の名は伊達成実といい、伊達家家臣だ。いや、家臣だった、が正確かもしれない。成実の立場は実に微妙なものだった。 (今日は…何かあったっけな……) 元来頭を使うより、見た目通り、腕を振るう方が得意な身。きびきびとした反応は出来もしない。現在成実は注意散漫であった。 「成実殿」 「え、うわっ、あれ!?」 故に、部屋の中に仏像のように微動だにせず座っていた人間の存在に気付きもしなかった。 「山城殿……」 「すまない、無礼は承知だが、約束もしていたのであがらせてもらった」 「えっと」 じゃあ起こしてくれよ、と言いたい成実だったが、 どこか普通の感覚とずれた価値観を持つ兼続に言うのも無駄というものかもしれない。 兼続は、戦場で見る格好とはうってちがった質素な服装をしていた。 藍色の陣場織に灰色の袴、頭に不思議な被りものをする事もなく、黙っていれば好青年に見えなくもない。 だからといって、何か中身が変わるとか、そういう事はないのだが。 「答えを、今日こそは聞かせて頂きたい」 兼続の落ち着いた声に、返事はしない。 はぐらかすように結い紐を解くと、視線を逸らしたまま立ち上げった。 兼続がさらに口を開こうとするのを視界の端に捕らえて、成実は咄嗟に言い訳をした。 「とりあえず茶でも入れますよ」 今の成実はまるで隠居の様な暮らしをしていた。小さな庵、小さな庭、ささやかな収穫、そして季節のうつろい。 それらはただ暮らすという点に置いて全く不便はしなかったが、成実が本来求めているものを与えてくれはしなかった。 水を打った様に物音のしない部屋に、茶を入れる音が響く。茶を入れた湯飲みは底の知れぬ湖みたいで、何故か少し怖くなる。 角度をずらせば、身じろぎもせず成実を見る兼続の姿が映った。 「……どうぞ」 「迷っておられる所以は、政宗殿だろうか」 「……そうです」 ゆっくりと顔をあげて兼続を見る。 兼続は少し微笑んでいるようだった。 顔は微笑みながら、しかし、嘘やはぐらかしの通じない瞳は成実を責めていた。 「貴方は、俺を誘いに来たのか、後押しに来たのか」 思わず苦笑が漏れてしまったのは、その姿が従兄弟の姿と重なったからだ。 迷いなく明日を、さらにその先を見つめ続ける強い瞳。仕えるのに頼もしい、大切な主―――。 もとより成実に、兼続の誘いにのる気はなかった。乱世に生きる者として、それ位の忠義は持っていた。 (政宗の所へ戻ろう……) 故あって伊達家を離れた成実だったが、それは政宗を見限ったからではない。いずれ、戻る気はあった。 だが月日を経る毎にきっかけは失われ、幼い頃は言えた“仲直り”の言葉が、今は中々言えない。 年月は互いの間に必要のなかった筈の隔たりを作り、無駄な矜持を育てていたようだ。 (はは、俺達も大人になったって事かなぁ) それはあまり嬉しい成長ではないけれど。 しかし、大人になりたいと切に願っていたあの頃を思えば何だか皮肉的で、口元はいつの間にか緩んでいた。 「勿論貴殿を誘いに来たのだが……何がおかしい、先程から」 「あはは、申し訳ない。貴方を見ていたら政宗の事を思い出したので」 「な、私を見て……!?」 兼続は咄嗟に右の目に手をあてた。確かめるようになぞるが、勿論変わりはない。兼続の両の目は、しっかり光を捕らえていた。 「隻眼って意味じゃあないです。性格とか、雰囲気とか。正反対なようで結局は似た者どうしに見えて仕方ない」 「私と…?」 兼続は眉をひそめてその場に硬直した。 続く筈だった言葉を想定して、また成実から笑みが零れる。 その姿がまたく主と被ったからだ。兼続と似ているなどと言ったら、政宗はきっと同じ反応を見せるだろう。 「でも、政宗、昔はあんな勝ち気な性格じゃあなかったんですよ」 「ではまさか長曽我部殿の父上のような?あの華奢な体つきならさもありなん、とは思わんではないが……」 「いや、姫とまでは。ただ素直で真面目で、笑顔が眩しくて。皆に愛されていたのに……突然無口になって。 ひがみっぽくなって、無表情になりました。それを経ての今のあれは、一種の開き直りなんですよ」 「弟を殺し、母を遠退けたという話も聞いているが……それも開き直りなのか」 兼続の眼差しに冷たい色が走る。 「違いますよ。いや、少しもその感情がなかったかといえば、それは違いましょうが、 あれは母上の心が伊達家から離れて良からぬ事を企んだからです」 からからと笑って、成実は茶を啜った。 得体の知れない何かのせいで、喉が渇いていた。うまく喉を通らない。体が自分でないものに支配された心地がした。 それは具体的には分からないが、成実の心の中に諾々と溜め込まれてきた恐怖のようなものを背筋からはい上がらせてきた。 (政宗は俺にも手にかけるだろうか) 払拭するように頭を振って、もう一度茶に手を伸ばす。何か気分を直す手だてはなかろうか。 その時、ふと庭の池に映る自分の顔が目に入った。 (あ…) 頭に浮かんだ情景はもう数十年も昔の、今まで成実さえ忘れていたものだった。 「……あなたに話すのもおかしな話ですが、一つ、昔話を聞いて頂けませんか?」 兼続は、静かに頷いた。 梵天丸が元の愛らしい顔付きをなくして以来、義姫は梵天丸を忌み嫌い、小次郎ばかりを可愛がるようになった。 何も知らない幼い小次郎は単純にただ母に構って貰う事が嬉しかったのか、自然と兄に懐く事を止めた。 性格が捩曲がったわけでも、兄を厭ったわけでないが、兄はそれを受け止めるには余りに幼い子供だった。 捩曲がってしまったのは兄の方だったのだ。それでも父親は長男を大切にしたが、 家に流れる今までにはなかった不穏な空気を、幼い子供だからこそ痛い程感じとっていた。 そんな頃の、雪溶けが始まる奥州での、おそらく今は誰も覚えていないような話―――。 「小十郎どの!」 「…あ、あぁ時宗丸か」 「誰だと思った?」 くすり、と小十郎に笑いかけたのは時宗丸、後の成実だった。 その頃の二人は、まるで双子のように似ていて、それを良い事にふざけて大人をからかったりしていた。 「梵の所、行くんでしょう?病気も治ったんだし、俺も遊びたい!連れて行って下さい!」 「……」 小十郎は不思議そうな顔で己の腰程しかない少年を見つめた。時宗丸とて、梵天丸の現状を知らぬわけではない。 しかし時宗丸の顔に浮かぶ表情は余りに無垢で、小十郎は考えが読めなかった。 (こういう態度が、もしかしたら必要なのかもしれない) さらさらとした子供特有の髪を撫でながら、段々その表情は穏やかな物になっていった。 「よし、着いてきな」 奥まった屋敷の南側、雪の積もった庭が望める部屋に梵天丸は居た。 部屋へ入る旨を小十郎が告げ、今日は別の者も連れて来たと言いながら襖を開ければ、 梵天丸は一瞬だけ何かを期待するかのように俊敏に外へ視線を向けたが、期待が外れたのか、 今度は緩慢な動きで俯いてしまった。 部屋中に本を散らばせ、寝間着から着替える事なく、痩せた子供がそこに居た。 「去ね。わしがは誰とも会いとうない」 「いやだ」 もう一度梵天丸は顔をあげ、今度は片目でぎろり、と時宗丸を睨みつけた。 「去ね!」 「いやだ!」 掠れあがった梵天丸の叫び声に驚いたのは小十郎で、部屋へ入ろうとする時宗丸を思わず止めてしまったが、 それでも時宗丸は声を止めなかった。 「梵天丸は病気が治ったら俺と遊ぶって約束したじゃないか!」 「時宗丸にわしの何が分かる!このような悍ましい顔になる気持ち、分かると申すのか!」 その時、時宗丸が何を感じたのかは、成実はもう覚えてはいない。梵天丸の瞳の中に壊れそうな繊細な気持ちを見たのか、 はたまた友人であり尊敬していた者への単なる憤りだったのかもしれない。 いずれにせよ、震えた声で喚く梵天丸を見て、時宗丸は目にも止まらぬ速さで小十郎から脇差しを奪うと、 それを自分の左目に突き立てた。 (あぁ、痛い。でも、これでまた、梵天丸と) 噴き出した血のせいで視界が歪み、激しい痛みで意識が遠退きかけたが、時宗丸は、言葉を続けた。 「ほら、これで同じ。たいしたこと、ないよ」 痛々しい様を見せながら、時宗丸はにやりと微笑んだ。 「たわけ、それでは反対じゃ」 罵る少年も、ほんの少しだけ笑っていた。 「結局その後、俺は倒れて小十郎殿に助けてもらったんですけどね。 しかも、左目は多少見え辛くなっただけで失明はしませんでした」 照れて笑う成実を、兼続は静かに見つめていた。左目の少し上の額から、瞼の上まで、肉が盛り上がって生々しい傷跡がある。 それは、穏やかで少し抜けた所のある眼前の若者に妙に箔をつけている。 「怪我を治して会いに言ったら、『自ら武士に大事な目を傷付ける愚か者!』って叱られました。 でも、それはもういつものあいつで、ああ、大丈夫だなって思ったんです」 「開き直り、か」 「そうですね」 くすり、と笑って、成実は少し眉を潜めた。 「でも、お方様の心が戻る事はありませんでしたし、それどころか予想される最悪の事態が起こってしまいました」 そういえば、と成実は思う。 義姫の毒から一命を取り留めた時、政宗は悲しそうな顔は見せなかった。 立ち直ると決めたあの日から、政宗は全てを諦め、その上に自分の道を作ってきたのだろうか。 何故か成実の心が少し、痛んだ。 「兼続殿」 改まった調子で、成実が言う。 自分がここで安穏と燻っている間も、政宗はきっと道を作り続けている。 母の笑顔を、弟との語らいを、諦めて。 だから、自分は、自分こそは何があっても側に居るべきなのだ。それが、あの日あの部屋から政宗を連れ出した成実の責任。 「申し訳ないが」 「みなまで言わなくとも分かる……上杉は惜しい人材を逃がした」 「そう言って頂けると、光栄です」 快活に笑って頭を下げた青年は、もう、この庵の主ではなくなっていた。 馬のいななきと共に青年は武人へと姿を変え、一直線に奥州へ。 成実は、三日月の兜の下で不敵に微笑む従兄弟の憎まれ口が、酷く恋しくなっていることに気付き、 にやり、と口角を上げてたずなを握り直した。 奥州はきっと、青々とした新緑が、生えはじめたころだろう。 ―戻る―