こんな日常があったら、それは平和の証なんだろう。


[穏やかな夜明け]
六十六年


今朝は、嫌に早く目が覚めた。
歳か、と一瞬だけ考えはしたが、流石にこれだけの早起きは老人でもしないだろう。
まだ外は暗く、暖かい季節のはずなのに肌で感じる気温はひんやりと冷たい。
辺りはしんとして、屋敷の誰も起きていない事は明らかだった。

(無理に起こすのも、可哀相か)

いつの間にか再び寝るという選択肢は我から消え、
起きてしまったなら仕方ない、と開き直って早々登庁してみることにした。

(まるで違う風に見えるわ)

薄暗い中にそびえる城は、昼間と違う一面を見せる。そして夜の漆黒の中とも、また少し違う。
まだ顔を見せぬ朝日の、仄かな明かりが寒さと相俟って城をぼんやりとした色に染めていた。
そんな城の中を歩きながら、我は些細な……しかし自分ではどうしようもない悩みに苛まれていた。

(自力では髪が結えん)

肩より少し下あたりの、結うには一般的な長さの髪だが、普段は家の者に任せて結ってもらっている。
というのも、片手では髪は結えないからだ。だからといって屋敷に戻るのも面倒臭い。
しどけなく波うつ髪に途方に暮れていると、三つ先の部屋に明かりが灯っているのに気がついた。

(……司空の、部屋ではないか?)

普段から迷惑を被っている仕返しに髪くらい結って貰おうではないか、
と勇んで司空の部屋の扉に手をかけた。


※※※※※※※※※※

「ふぅ」

小さな溜息は、広い部屋の中で自分だけが聞いていた。

(問題が山積みだな)

やはりこないだの戦で八万もの兵を出したのがきつい。後、軍師との約束も。
いずれも必要な事だと分かっているから、やり繰りをする手腕が求められているだけだ。
司徒が上げてきた献策の数々にひとつひとつ目を通すうちに、
綱渡りの国なのだな、と思わずにはいられなかった。
物品的に潤ってはいるのだが、それは商人達の勝手であり、それに対して地の利用料は破格の安さだ。
というのも、その金額は帝国が勝手に決めたもので、
それに従わざるを得ないのは、我が国に交易以外で生産出来る物が乏しいせい。
値段を上げてしまえば使用する者も減る。それだけは避けなければならないのだ。
帝国は交易以外に田畑を耕す事が盛んだから、地の利用料を無理に引き上げなくとも何ら問題はないのだろう。

(あぁもう、考えるのは好きではないんだ)

静けさが支配する陰気な部屋を払拭するように、がたん、と派手に音をたてて立ち上がる。
薄暗い空を睨みながら、しばらく散歩をする事にした。

※※※※※※※※※※

「笑うべきか、怒るべきか、悩み所と言えばそうだが」

わざと声に出してみる。
しかし返事はなく、ただ虚しさに似た呆れが残るだけだった。

(いくつなのだこの男は)

部屋の扉を開けて我が見たものは、部屋中の明かりをつけたまま、
部屋の主が机に突っ伏して寝ている姿だったのだ。
それだけならまだしも、文字を書いている途中だったらしく、
起こすために首を引っ張って上を向かせた所で頬に墨がついていている事に気がついた。
その辺にあった汚れた布で乱暴に頬の墨を拭ってやっても、一向に司空は起きる気配を見せなかった。

(貴様は戦場では真っ先に死ぬ類の人間よ)

そう悪態をつきながら、眠りこける間抜けな友人の横に腰掛け、小さく溜息をついた。
ここで女人なら布の一枚や二枚かけてやるのだろうな、とふと思う。
我には安眠の方向へ誘ってやる気など、毛頭ないが。
何をぶつけたら起きるだろうか、と部屋の中にある重そうな物を見回したが、
結局大したものは見付からなかった。

(もういいわ。我が殴って起こしてやる)

左手の拳を握って、振り上げた瞬間。

※※※※※※※※※※

「何やってんだ?」

ごん、と言う鈍い音と、俺が声をあげるのは、いっそ清々しい程重なって聞こえた。

「い、……っ痛い……!」

癖の強い髪を結びもせず垂らした男が司空を全力で殴っている、という訳のわからない光景の中、
悲痛な声だけが虚しく響いた。
しかもどうやら俺の声に反応して振り向き様に殴ったせいで、頭にあたるはずだった拳は、
司空の顔面にあたった様に見える。

(……誰だこいつ)

右に居る人間を左手で殴るという奇妙な行動をした男の右腕を見て、それがない事に気がついた。

「あ、お前、大尉なのか」
「……はい」

完全に振り返った男は、確かに大尉のように見えた。

「……俺には何となくいきさつが分かるような気がするんだが」
「多分、その通りかと」
「そうか。ははっ、ははは!!」

目を反らしながら苦笑混じりに言う姿が、普段の堂々としているこの男と余りにも差があって、
思わず笑ってしまった。
困った様な顔をして口ごもる姿も始めて見て、更におかしい。

「……っ、私を忘れるな馬鹿大尉!!」
「貴様、やっと起きたか」
「起きたかだと?寧ろその先まで行きかけたぞふざけるな!」
「それに関しては事故だ、すまぬ」
「事故で済むか!貴様が殴ろうとしていた事に変わりはないんだろうが」
「それに関しては何をやっても一向に起きん貴様が悪い」
「私が自室で寝ていて何が悪いんだ!」
「作業中に突っ伏して寝ているのは悪いだろう、明かりも勿体ない」
「貴様に勿体ないなど言われたくない!」
「軍事と私事を一緒くたにするでない。我はほらみろ、袖すら片側は遠慮する程倹約家だ」
「右腕を笑い話にするな!」
「何故貴様に言われねばならん!」

「あははは、はははっ!」

「「王は笑い過ぎです!」」

腹が痛い。普段は凛として、
下らない会話など却下と言わんばかりに冷たい喋り方をする二人が、まるで下らない会話をしている。
二人は仲が良いのだ、と軍師から聞いた事があるが、これは確かに仲が良い。
仲が良いを通り越して似た者通しだ。

「悪い悪い。いや、でもお前らがそんなに仲が良かったとは知らなかったから」
「まぁ、良いんでしょうね、仲は」
「ほぅ、否定しないんだな」
「否定する程幼くはありませんよ私達。だからと言って仲が良い、と吹聴する程幼くもありませんし」

正直何で仲が良いのか、いまいち分かりませんが、と言って溜息をつく姿にまた笑ってしまった。
隣で私もわからない、とばかりに頷く司空を見て、
あぁ本当に仲が良いと言う関係はこういうものかな、と妙に納得する俺がいた。

「で、貴様その髪どうした。紐でも切れたか」
「いや、紐はある」
「あぁ、結べないのか。座れ」

結び慣れていないせいでいびつではあるが、大尉の見た目は漸くいつもの姿に近付いた。
だが油を置いていないせいで固定出来ない前髪が欝陶しそうだ。
未だぼんやりと薄暗い外をちらりと見やれば、
階下でよくわからない格好の人物と弟が何やら喋っているのが目に入った。

「揃いも揃って朝から元気だな」
「誰か居ましたか?」

言いながら二人も外を見る。
よくわからないが、弟でない方は軍師だろう。
大体この城でよくわからないことを言ったりよくわからない事を起こすのは軍師だ。
本人に言わせれば筋が通っているらしいが、解釈に悩む事がままある。

「あのよくわからない格好をしている方は誰だ?大尉」
「何故我に聞く」
「目が良いだろう貴様は。私は悪いんだ」
「あれは軍師だよ、司空」
「王?」
「多分、軍師の郷里の格好なんじゃないか?また弟でもからかってたんだろう」

軍師はどうやらあの弟がお気に入りの様だし。
まぁ、あんだけからかいがいのある奴もなかなか居ないから、仕方ないと思う。俺もよく悪戯に手を貸すし。

(あいつらも、仲が良いよな……)

「……でもあれ、女性の服に見えますが」
「は?」
「後、庭の中央に機織りがありますよ」
「夜通し織ってた……のか?何のために」
「分かりかねます」

訳が分からん、と司空が呟いたのに合わせて何故か軍師がこちらに顔を向けたので、
慌てて三人して窓から飛びのいた。
その姿に俺が笑うと、つられた様に二人も笑い出して、笑い声が静かな朝に響いていた。
そろそろ太陽も昇るだろう。
そうしたら穏やかな朝は終わりを告げて、また忙しい日常が始まる。そんなつかの間の、
小さな朝の小さな出来事が無性に楽しくて、この国の平和を感じずにはいられないのだ。


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1000hitと微妙にリンクしてます(笑)
昔なら髪は毎日とかないんじゃ?そして結うならダンゴでは?って疑問は持たない方向でお願いします。
私は髪フェチのロン毛フェチ!良いじゃん髪の毛の描写したかったんだもん!これでも控えめだもん!
司空の態度については、彼も一応仕事なので王に対してだけは真面目一辺倒で対応しています、
って言ってみる。



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