「そんな所におられたのですか、周瑜殿」

大河を前にした絶壁の上、妖しい月が光る下、孫家の軍師は佇んでいた。
今宵、彼が好んで身につける赤い服は、不吉にも血色のように見えた。

「……陸遜」

噛み締めるように穏やかな口調。
身の内に猛々しい炎を狩っているとは思わせないその様子は、闇夜の月と重なった。
巷では周瑜を美周郎と呼ぶ者もあるという。
なかなかどうして滅多にお目にかかれない美麗な容姿は、陸遜にはただの美しさとしては映らなかった。
憂いがある。
憂いが常に周瑜を取り巻いているのだ。
普段、軍師として勇姿を奮っているときには忘れてしまうが、周瑜にはどこか儚く消えて逝きそうな雰囲気がある。
だから今宵、周瑜の姿が見えなくなったことに胸騒ぎがして探しに出たのだ。

「今宵は北風が激しく吹いております。すぐにお戻り下さい」
「今日は放っておいてもらえないか」
「今日はって…今日だから尚更駄目なんですよ、明日を何の…」
「分かっている」

明日はこの季節には珍しく北風が東南の風へと変わる。
それを合図に、長江の上で膠着状態にある曹操の軍に総攻撃をかけるのだ。
絶対の成功を孫家の手に納めるため、
張昭には裏切る素振りを演じさせ、
黄蓋には投降する素振りを演じさせた。
実権を周瑜が握る中、孫家の当主が孫堅の時代からの臣下の投降を、曹操は信じるだろう。
何と言うこともない、全て周瑜の立てた策だ。
たった一人で、曹操という難攻不落な堅城を倒すすべを彼は考えていた。

「策は…」
「滞りなく進んでいます」
「……あ、いやそちらではない。我が義兄の事だ」

ふわり、また周瑜の顔が憂いを帯びる。

「あぁ…孫策殿ですか」
「そう。伯符はよく今宵の私のように
ふらりとどこかへ行くことが多かった。よく…探したものだ」

ざりっ。
また一歩、崖を進む。下手に足を動かせば落ちる位置まで進んでいた。

「あいつが見つかる所はいつもこんな場所だった。
月に手が届くような岩の上で、例え夜風が冷たく体を打とうとも…」

小覇王と呼ばれた孫策は明るく前向きな性格で、孫家を導いていた……と陸遜は聞いている。
その話と、今周瑜から聞く話の内容が合致しないことを
少し不思議に思った。
孫策は八年程前になくなったので陸遜との接点はないに等しい。

「太陽のようなあいつは闇がなかった。
だからわざわざあんな時間に月を眺める癖が出来たのか…それとも他に理由があるのか…ふと、試したくなったのだよ」
「…結果、どうでした?」
「途中で陸遜が来てしまった」
「あ、すみません」

いいんだ、と言ってまた儚げに笑う。

「所詮孫策の気持ちなど孫策にしかわからない」

苦しそうに呟いた後、相談と言うより独白になるが、話を聞いてくれるかと周瑜は問うた。
孫策と周瑜は親友で、普段感情を露わにしない周瑜がむきになって突っかかることも少なくなかったという。
しかし、孫策が死んだ後は、皆が悲しみに暮れる中、
率先して孫権を担ぎ上げ、孫家を守るために誰よりも尽くしたと言われている。
そんな周瑜が孫策への未練を捨て切れていない様子が不思議で、陸遜は思わず頷いていた。

「私は、怖くなった」
「……周瑜殿の策は外れません」
「違う、それじゃない…いや、確かにそれも恐れるべきことではあるのだが…
何故かな、私は軍師としての仕事にあまり不安を覚えない。私が今怖いと言ったのは自分の考え方なのだ」
「…分かりかねますが…」
「私は病を患っている…日に日に体力が衰えていくのが分かる、そんな病だ。
……その病を孫策からの催促に感じてしまう。
あいつの口癖が聞こえるようだ“周瑜、お前が一緒ならもっと面白ぇ!”と」

孫策は死ぬ間際に孫権にこう言い残している。
“外は周瑜、内は張昭に任せよ”と。
袁術の元で辛酸を舐めてきた孫策は孫家が天下を取ることを誰よりも望んでいたと言っても過言ではない。

「おかしいのは、分かっている。私の死など望むはずがない。
分かっていても、どうにもこの考えが頭から離れない」
「周瑜殿……」
「理由は分かっているのだけどな」

目を伏せて僅かに躊躇いの色を見せるが、周瑜はまたすぐに口を開いた。

「私は、怖がりなんだ。この国には孫権様を始めとする
有能な武将が揃っているし、戦をするなら軍師としての私の居場所もある。
だが、死した後にある所に……一人きりで私は堪えられるのだろうか」
「死ぬだなんて、おっしゃらないで下さい。
それに、死ぬのが怖いのは当たり前じゃないですか。
誰だって怖いですし、その先に誰かが待っていてくれるならそう信じたいに決まってます。
戦の前日の晩に、不吉な事をおっしゃらないで下さい!」
「……そうだな。軍師失格だ。陸遜、礼を言う」

言ったか言わないかで、周瑜の瞳に強くて猛々しい炎が漲った。
この男、淡麗な美貌に惑わされがちだか、中身は幼いと思えるまでに熱い闘志を湛えている。

「気分が良くなった、さぁ陣に戻ろう。
私達がいない間に劉備軍に好き勝手やられるのは腹が立つしな。特にあの諸葛り………」
「どうかなさいました?」

周瑜が呆然と見上げた空を陸遜も見上げてみる。
雲一つない妖しい闇が月明かりを放っている以外に、
何も変わったものはなかった。

「周瑜…殿?」
「                」

形の良い唇が、音のない言葉を紡いだ。
その一瞬、周瑜の顔はとても幼くて嬉しそうで、
慈愛に満ちたかのように陸遜には見えた。

「ありがとう」
「え…?」

背筋を伸ばして、艶のある髪を棚引かせながら、周瑜は去った。
臆することなくただ前だけを見つめる姿にしばし陸遜は立ち尽くしたが、
北風が急かすように吹き殴ったので絶えきれなくなってその場を立ち去った。







二百八年、石頭関で起きた我が軍と曹操軍との戦は、我が方の圧勝にて幕を閉じました。
曹操軍の船を焼いた炎が見事なまでに石頭関を赤々と照らした事から、
今では「赤壁」と呼ばれています。
一重に、軍師周瑜の策のお陰でした。

あの日の晩私と話していた周瑜殿は、僅か数年の後に病死。
血を吐く病を患っていたとの事です。

私はよくあの日の事を思い出します。
空を見て呟いた言葉、あれは一体何だったのでしょうか。
何となく、予想はついています。
きっと、孫策殿に関わる事なのだろうということ位ですが。

孫策殿が太陽なら、周瑜殿は月。
太陽は月を、月は太陽を待っている。
だから一人月を望んだ孫策殿は、他でもない周瑜殿を待っていたのだと。
死が二人を隔ても、孫策殿は周瑜殿と再び会えるまで、ずっとずっと待っていたのだと。

「君はずっと待っていてくれたのか?」

本当にそうだったのか、ですって?
いえ、こんなもの憶測にすぎません。
でも一つだけ言わせて欲しいのです。

志半ばで事切れた周瑜殿の死に顔は、
諦念に満ちたものだったとは決して言い切れなかったことを。



※※※※※※※※※※※※※※※※
ちょっと直した。
色々呼称が間違ってていたたまれなくなったので。
この頃の私はまだキャラをつかみ損ねている。
っていうか、未だに陸遜の他人に対する呼称が納得いかない。殿って目下の人に呼び掛ける時に使うんじゃなかったっけ?
後、陸遜と孫策って普通に会ってなかったっけ?ってのはなかった事にしてください。
そこから書きなおすと全部を変える羽目になるよ!



―戻る―