私だってたまには、大人げない嫉妬くらいしても良いじゃないか。


[鶴の一手]


孫策は碁が上手い。
普段の素行からは予想出来ないが、何とも意外な事に孫策は碁が上手いのだ。
私自身、碁を嫌いでも下手でもないから、たまに相手をして貰う事があるが、それでも大概は孫策が勝ち越す。
そして、孫策は上手い上に碁を好いている。いつも新しい何かを探して城内をうろつき回るくせに、
碁を指している時だけはまるで精巧な装飾品のようにその場から動かない。
その事をからかえば、そうかぁ?と間抜けな返事が返ってくるのだけど。

「君の碁は、石の方が似合いそうだな」
「石ぃ?石なんか使ったら壊れるだろ。何だよ公瑾、負け惜しみか?」
「違うよ。音だ」
「音?これか?」

パチン、と木にしては鋭い音が盤上に響く。
これがもし石であったなら、さぞかし引き締まる音が響くのではないか、とそう思ったのだ。
きっとその音は孫策に似合う。

「そう、それだ。頑丈な石を研摩すれば、それ程頻繁には壊れないだろう」
「石かぁ」

手元にあった石の筆置きを碁に見立ててパチン、と置けば確かに木より綺麗な音がしたので、
孫策は良いかもな、と微笑んでいた。

それが、半年前の話。
職人に碁に耐えうる石を探させ、試しに作らせたのは数月前。
出来上がったそれを見て、綺麗だ何だと褒めまくり、早速(政務を怠けて)手近な者を集めては碁をうっていた。
さらに噂を聞き付け、珍しい石の碁を見ようと好奇心旺盛な江東の者が片端から孫策に手合わせを願う始末だった。
孫権殿、魯粛、黄蓋殿、諸葛瑾、太史慈、呂蒙、更には張昭殿まで手合わせをしていたのには、流石に笑った。
石の碁は確かに魅力的で、雨の降る季節でもその音は凛と鳴り響いていた。

(しかし、いい加減にすべきだ)

この国は碁で衰退した、などとは流石に言われないだろうが、
それにしても孫策の政務の停滞具合は、尋常ならざるものがあった。

(尻拭いをするのはいつも私なのだから)

がちゃ、と少し傷んだ金属の音がして、孫策の執務室の扉は開いた。外は雨で、空気はじめじめと欝陶しい。
お陰で孫策が一番好きな体を動かす事の一切が出来なくなっていて、尚の事碁に集中する結果を導いていた。

「孫策」

パチン、と石の冷たい音が響く。
どうやら対局まだ始まったばかり、盤上の石は疎らにあるのみだった。

(しまった、今少し前に来るべきだったか)

す、と音もなく孫策の体が動いて、またパチンと盤上に石が増えた。

「あ、周瑜」

自分の手を終え、相手が熟考している間に、どうやら私の存在を思い出したらしい。
私を見る事もなく、まったく平淡な口調で話す声に腹が立った。「何の用だ」と言う時間さえ惜しいのか、
はたまた聞くまでもなく政務の催促だと気付いたのか、一言を放って孫策は私への関心を失い、また盤上に意識を戻していた。
パチン、とまた石が増える。孫策は僅かに増えた石に渋い顔を向けて、ぴくりとも動かなくなった。

(本当にこの集中力には舌を巻くのだがな)

まるで空気までもが孫策の沈黙に合わせているかの様にぴたりと止まって、私はその場から動けなくなる。
じっと孫策の後ろ姿を見たまま、しばしの時が流れた。
高い位置で結ばれた癖のない黒髪がふわりと動いて僅かに日焼けした首筋が見えて、やっと私の金縛りはとけた。

パチリ

「孫策、いい加減に」
「周瑜」

鋭い声色。
酷く苛立ったその声に、今度こそ私は何も言えなくなった。
私の事など、かけらも気にしていやしない。集中した孫策にとって、盤上と試合だけが世界なのだろうか。

(腹が立つ)

それは政務や他の『軍師』としての私ではなく、もっと幼い感情的な所での事だった。
パチリ、パチリ、と試合が進み、盤上が白と黒の星で埋まる。
恐ろしく時間をかけた一手を積み重ね、じめじめとした雨はいつしか止んでいた。
一手一手に時間を要している事は分かるのに、空間が丸ごと不思議に歪んで、
密度の濃い時間は体感にしてそれほど長くは感じない。
更に、未だ空に残る雲が、朝なのか昼なのか夕方なのか、全てを隠している。

(まるで孫策がこの空間を作っているようだ)

パチリ

相手の石が置かれ、僅かに揺れてまた盤上が沈黙を告げる。

(しかし、私がいつまでも大人しくしていると思ったら大間違いだ)

パチンッ!

「あ」
「え」

見事に間抜けな声が揃って、真剣な試合は終焉を迎えた。と、言うより私が迎えさせたのだ。

「ちょ、周瑜おまえ……」
「ひっでぇ」

困惑とも怒りともとれぬ表情を浮かべて孫策と相手――呂範が私を見詰めてくる。
二人とも今盤上に増えた石を見て、それがどういう意味を持つかを瞬時に理解したようだ。
孫策の後ろで対局を見守っていた私には、二人の気付いていない妙手がある事に気付いた。
そこで孫策が打つ側に回ってくると直ぐに、石を奪ってそこへ石を叩きつけたのだ。

「周瑜、これは流石に意地が悪過ぎるぜ」
「おまえも碁をやるんだから分かるだろうに」

集中の糸を切られた困惑から、段々と試合を台なしにされた怒りへ変わってゆく二人に、
私は何時も通りの涼しい顔をして聞き流した。

「周瑜、黙ってねぇで何か言えよ」
「では言わせて貰うが」

ぎろり、と孫策を睨む。

「私を無視して碁の方に集中する君に腹が立った」
「へ?」

それって、と呂範が呟いたのでそちらに向き直って言葉を続ける。

「そうだ、嫉妬だとも」
「ちょ、え?周瑜」
「私が嫉妬して悪いか」
「え、いや……」

慣れない事をして、内心赤くなるのを感じる。
その碁というのが私自ら提案した物だというのが尚更滑稽で、照れ隠しをするように声を張り上げた。

「私の孫策、返してもらう」
「お、おぉ」

ぽかん、と間抜けな顔をしていた孫策の袖を掴んでつかつかと部屋を出る。
しばらく歩いた後で後ろから抱きすくめられた。

「そ……伯符?」
「さっきの、効いたぜ」

もっかい言ってくれ、と言うから耳元に再び言葉を紡げば、回廊の真ん中だと言うのに口付けられた。
抵抗しようとした手は自然と孫策の背にまわり、
私より少し背の低い孫策に体を預けながら、たまには碁も良いのかもしれない、と思う自分がいた。



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もし私が孫策と呂範の立場だったら、いくら好きな人だろうとぼこぼこになるまで殴るけどね!


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