珍しく、今日は周瑜から誘って来た。 [渓谷と、青空と、長江と、杞憂] いつもなら、逆だ。 政務に耐えられなくなった俺が抜け出して、周瑜を誘う。嫌な顔をしながら、でも本気で拒まれた事はない。 でも、今日は違った。 「孫策、出掛けよう!」 「え?いやでも今日、休みじゃねぇけど」 「何を今更常識ぶっているんだ?ほら、早く仕度して!」 「仕度って、おまえ、ちょ、」 「あぁもう面倒だ、そのままで良い!」 全く脈絡がない。まるで俺だ。 分けが分からないまま連れ出された俺は、いつの間にか手配されていた馬に乗って、周瑜の後に続いた。 あぁ、これも普段と逆だ。 「周瑜!なぁ、おまえ」 「良いから、今日は私について来てくれないか?」 疑問の形はとっているが、周瑜は答えを待ってはくれない。 開かけた口を閉じるのは少し腹が立ったが、文句を言う相手はずっと先。 仕方なく馬を走らせれば春先の空気はほのかに暖かくて確かに気持ちが良かったから、 そういう事なのかと無理矢理解釈して俺は黙った。 ただ、見る物がない。 草原を走るでもなく、河辺を走るでもなく、森の中を走っている。 周瑜の事だから道には迷っていないのだろうが、そのあたりの意図が全く掴めなかった。 簡単に言えば、今日の周瑜には脈絡がない。 普段はこちらが反論出来ないまでに正論をまくし立てるだけに、その異常な行動が俺を混乱させる。 「周瑜、怒ってんのか?」 漸く追い付いた俺は、なるべく普段通りの声でそう尋ねた。 尋ねてはみたものの、その実、俺は周瑜が怒っているとは思っていない。 少なくとも今は、怒りに任せて俺を連れ出しているわけではない。周瑜の怒り方は、こうではないのだ。 「……怒ってなんかいないよ、伯符」 そういって振り向いた周瑜は笑っていた。 怒りを隠した笑い方には見えなかったから、言葉に嘘はないだろう。案の定だ。 それより、最後に強調するようにつけられた「伯符」が気になった。 「なら良いんだけどよ、公瑾」 俺も字で返事を返すと、周瑜はまたくすりと笑ったように見えた。 二人きりの時は字で、と決めたのはいつだったろうか。俺は何時でも字で良いと言ったのだが、周瑜は拒否した。 主従の関係を取ってる以上どうのこうのとか堅苦しい事を言って「御主君」だなんて呼ぶから、 俺も怒ってそれを拒否した。だから、周瑜は俺を孫策と呼ぶ。 周りも流されて、呉では俺を姓名で呼ぶようになった。 最後に殿とか様がつく奴も多いが、それ位はまぁ仕方ないのだろう。 「伯符、すまないがこれより先は馬では無理そうだ」 「ん?あれ、山だったのか」 気付けば、少し開けた所に出ていて、遠くに舒の街が見えた。城壁で街の中は見えなかったけれど。 「ただの森にわざわざ行く奴があるか」 「おまえならやりかねないかなぁって」 「君なら、やるかも知れないな」 顔を見合わせて、肩を竦めて笑った。 「さて、頂上まで後少しだ。名山として名高い山の頂、是非拝んでみたいだろう、兄上?」 「兄上っておまえ、気持ち悪ぃな」 二人並んで、山を登ってゆく。 さっきと違って、周瑜の顔が間近に見えた。 でも、相変わらずの涼しい顔で、そこから何かを感じる事は出来ない。 そもそも、二人で悪戯をする時以外の周瑜の顔はいつもこんなもんだ。 「気持ち悪いか?事実、そうだろうに。仲謀殿と尚香様は君を何と呼ぶ?」 「兄上と兄様だけど……あいつらは本当に弟と妹だし」 「私は弟ではないと?義兄弟の契りは今日で終いか?」 「違う。大体兄か弟かなんて、たまたま俺が三月早く生まれたからだろ? 俺はそういうんじゃなくて、もう何て言って良いかわかんねぇけど、おまえにとって俺は俺だろ!」 周瑜は、少しだけ目を丸くして、至極穏やかに笑った。 「なんだ、分かってるじゃないか。私もそう思っているよ」 「何なんだよ、今日のおまえ、気持ち悪いぞ」 「そんなことないさ」 邪気もなくにこりと笑うので、益々周瑜の意図が分からない。 何処か楽しんでいる口ぶりに、俺は少し腹が立ってきた。 「おい公瑾、いい加減に……」 「頂上、みたいだな」 「……おぅ」 絶壁、広がる森林、眼下遥か下を流れる大河。雲はなく、空は何処まで行っても青かった。 確かに、絶景と言えるだろう。 「下に流れているのは長江だよ」 「……ぃ」 「すまない、聞こえなかった」 「寒ぃ!」 「え?あ……その格好」 春先の普段着は、布地がそこまで厚くない。 その上俺は基本的に暑がりだから、更に色々省いて涼しい格好だった。 そのまま山に登って汗をかき、今山頂の冷気に晒されて、そりゃあ寒いに決まってる。 「これで大丈夫か?」 周瑜が羽織っていた着物を二枚、俺に貸してくれた。 今度は周瑜が明らかに寒そうな格好になったから、結局二人くっついて羽織る事になった。 「確かに君の腕は冷たいな。普段熱い分、新鮮だ」 「普段冷たいおまえの手が暖かいってのも新鮮だぜ」 「私はいつも通りで、君が勝手に冷たいだけだ」 そう言いながら、周瑜は手近の石を拾っては捨て、拾っては捨てを繰り返し、 しばらく後に気に入った物を見つけたらしく、するりと俺の隣から去った。 「何してんだ?」 「何って……こう言う時は詩を残すのが礼儀だろう?君もどうだい?」 「嫌いい、……俺の分も書いといてくれ」 「代筆か?後から来た人が君の名を見て驚くだろうな、孫策はこれほど詩の才があったのか……と」 「自画自賛かよ。じゃ、適当な名で書いておいてくれ」 「そうか、では小覇王と書いておくよ」 「……それはッ!」 勢いよく振り返ると、周瑜が目の前に立っていた。 絶世の美女も裸足で逃げ出す美貌を冷たい色に染めて、辺りを凍らせるような視線が俺に刺さる。 分かりやすい。これぞ、まさに怒っている顔だ。 「それは?」 怒気を含んだ声は低く尖って聞こえる。 「それは……嫌だ」 周瑜が返事を返さない。 嫌な沈黙が流れた。その間に、多少の後ろめたさと共に今日のいきさつを逐一思い出してみると、 目茶苦茶に感じた周瑜の行動に、一本の線が通っている事に気が付いた。 「周瑜、おまえまさか……」 「覇王とは、先の項羽の事。小覇王……項羽に敵わないとされている事が不満なのか、 はたまた劉邦に負けた項羽に例えられているのが不満なのか、 そもそも誰かに『例え』られるのが不満なのか……最近君は酷く機嫌が悪い」 「そうじゃねぇ!いや、それもそうではあるんだけど、それだけじゃ」 「そうだな。いつもの君なら、民衆のそのような噂、一笑に付すだろう。 でも、袁術の事があったばかりだから気になった」 開いた口が塞がらない、とはまさにこの事を言うのだろう。 全てお見通しというわけだ。 民の間で俺の事を小覇王とあだ名する者が居る、という話を聞いたのは数月前。 その時は気になどしていなかった。 いずれ孫策の名、世に知らしめてみせる、と、そう思っていた。 だが、袁術が死んだから。 俺がいつか倒してやると思っていた袁術を別の奴に奪われた。酷く腹が立った。 腹が立って、自分に憤った。 「君は柄にもなく悩んだわけだ。袁術すら討てない自分に天下など、と……まったく馬鹿らしい」 「馬鹿らしいって何だよ」 思わず声が低くなる。 睨みつける俺の視線を、周瑜は反らさずに受け止めた。 「馬鹿らしいものを馬鹿らしいと言って何が悪い。 君の仕事は前に進む事、後ろを振り向く事ではない。後ろに天下はないだろう」 「俺は別に怖じけづいたわけじゃねぇぞ」 「当たり前だ」 ぴしゃりと、有無を言わせぬ強さで周瑜の声が俺に刺さる。 「要するに君は、君自身の不甲斐なさに納得がいってない。 その上に小覇王などと揶揄されたから余計に腹が立っている。違うか?」 「……言葉にされれば、そうなのかもしれない」 周瑜の言葉はすとん、と俺の中に収まった。 漠然とした怒りが、細かく分けられて、余計な物が省かれた。残ったのは、物凄く簡単で情けない悩み。 「まぁ、付け加えれば、民に揶揄の気持ちがない事も分かって更に空回りして腹を立てたのだろうが。 ……考えるな、とは言わない。だが、考え過ぎる君は、君らしくない」 「俺らしさだけで渡っていけるのか」 珍しいな、と困ったように微笑んで周瑜の手が俺の頬に触れる。 その手に自分の手を重ねると、周瑜の手が酷く小さいもののように感じた。 暖かなそれをぎゅう、と握って、俺は思わず視線をそらす。何故だか、周瑜の目を直視出来ない。 俺の頭の中で、沢山の声が渦巻いて、何も思いつきやしない。 そうだな、確かに考え過ぎるのは俺らしくないんだ。 だから (おまえが居るんだ) 「公瑾、おまえの言葉が欲しい」 それは俺を俺たらしめる力。 今度はしっかりと、周瑜の目を見ることが出来た。俺の姿を映す、鏡のような瞳。 周瑜は小さく頷いて、俺の欲しい言葉をくれた。 「私の見込んだ君はこの程度ではないよ」 おぅ、と返事をして周瑜の横に立つ。風は冷たかったけれど、それほど気にならなくなっていた。 「じゃあ私も、君の言葉が欲しいな」 そう言いながら、帰路につこうとする周瑜を駆け足で追い越す。 そうして振り返りながら、今度は俺が周瑜の欲しい言葉を紡いでゆく。 「行こうぜ、周瑜!」 ※※※※※※※※※ 互いに不安を抱えてるんだけど、二人居れば打ち消せる、そんな断金が大好きです。 二人きりの時は字呼びがマイ設定なんだけど、最後の台詞は周瑜の方がしっくりくるから周瑜で (それならそんなややこしい設定作らなきゃ良いのにとかそんな事言わない) ―戻る―