きっかけは何でも良い。 空が澄み渡っているからでも、逆に見事に雲っているからでも。月がない夜でも、満ちた夜でも。 [逃避夜行] 忠や義がまかり通らぬ今の世を、どうしても納得出来ない。 天下人を気取り日ノ本を我が物とする狸が赦せない。 何より、そう分かっていながら何も出来ていない自分が、一番赦せなかった。 行動は、している。仲間も居る。 だが動けば動く程事態は悪くなっている。 (俺のやっている事は、無駄なのか!) 筆を畳に投げ付ける。 音もなく畳は黒く染まった。 今度は硯ごと畳に押し付けてやろうかと思ったが、少し考えて止めた。 代わりに、今書いていた文の上に割れる事を承知で落とす。 案の定破片と墨は一緒になって部屋と自分の袴を汚した。 何故か笑えてきて、何故か涙が出た。 何をしても最近はいつも、砂を笊で掬うような手応えのなさを感じる。 自分の無力さをいやがおうでも味わされていた。 (どうにでもなれ) 明かりを消して、襖を少し開く。 冷たい風が入って、一緒に一幅の月明かりが差し込んで来た。 (今宵は満月か?) 月明かりを頼りに空を仰ぐと、半月を過ぎた、何とも不格好な月が夜空に昇っていた。 (……その程度か) 不格好だが、妖しい雰囲気の月に誘われるように廊下へ出る。 やけをおこして、冷たいとわかりながら庭に降りていた。 足に刺すような痛みが走ったが、すぐに消えた。手の感覚もいつの間にか消えていた。 一歩足を進めると、流れるように次、次と前へ進んでいた。 (月が俺を掠う、か) 冷たい、という感覚を何処かに置いてきたかのように、氷の混じった地面をただひたすらに踏みしめ、進む。 屋敷の敷地はとうに過ぎた。 どうやって出たかなど、知るべくもない。 今分かるのは、雑草の混じった藪の中を、月を目指し歩き続ける滑稽な自分が居る事だ。 月は黄金色と言うには少しくすんでいる。光はもたらすが、全く暖かさはない。 暖かさの代わりに惑わす術を知った妖。 理解は出来ている、このままではおそらく凍え死ぬ。 何と無責任な話だ。 兼続や幸村は、俺の部下は皆一体どうなる。 兼続や幸村は俺が抜けた穴位塞ぐだろうが、俺の逃げを決して認めはしないだろう。 そうか、俺は今から逃げようとしている。 それで良いはずがないと思いながら、何処かで俺など所詮その程度だ、という声が聞こえる。 嘲笑うかのような冷酷な声は自分のものだった。 一介の豪族が、秀吉様のお陰で良い夢が見れたではないか。 身の程を弁えて、そろそろ引き下がれ。お前のような者が、大事を扱うなど出来よう筈が…… 「違う!!」 呼吸が白く染まるのが見えた。 「違う……俺は…」 ふと、視線が月から離れている事に気付いた。 しかし呪縛からは逃れられていない。初めて恐怖を感じた。 (このままではまずいッ……!!) 手を月に翳せば、赤く腫れあがっているのが分かる。 足も同じような状態だろうに、無意識のうちに前へ進んでいた。 道もなき藪の中をひたすら真っ直ぐ、月の方へ。 何故、思う間もなく今度は辺りが立ち込めるように暗くなった。 (月が隠れる……) 一片、また一片と悍ましい空気を携えて雲が月に被さり、澄んでいた空が瞬く間に曇天へと代わっていた。 その湿った空気が、今はとても有り難い。初めて、それを温かいと感じた。 今までは欝陶しさしか感じなかったどんよりとした空が耳が痛くなるような静けさを少しずつ消して、 これまで動き続けていた足が、遅くなり、そして止まった。 (俺は、消えたくなど、ない) 今は為せずとも、いずれ。 それを放棄する事など出来やしない。 友の為でもなく自分の為に。 自分が愛する民を守るために、変わらない太平の世を守るために。 多くの人が望み、血を流し、散っていった。そうしてやっとの事で掴み取った“皆が笑って暮らせる世”を守るために。 (やっと、分かったというのに) 足は止まってしまった。 もう動けそうもない。 (俺は多くの人の命を背負っていた) 志と言って何人もの道を捩曲げてきた。 自分は、彼らの働きに報いなければいけないのだ。 無情にも、ぽつり、ぽつりと降り始めた雨が感覚を取り戻させる。 触れた所から順に激痛が走るが、悲鳴を上げようにも喉からは掠れた声しか出ない。 大体声が出た所で、意味があるだろうか。このような場所、一体誰が来るというのだ。 はっきりしていた視界が薄れてゆく。 遠く、しぶきの音が聞こえる。 終わりか、何と呆気なく不様な……そう思った時だった。 「殿!?」 「……さこ…?」 視界の端に……幻覚だろうか、左近が見えた。一番苦労をかけた、大切な人。 言い訳をする時間はあるだろうか。 「俺は、」 「何やってんですかあんたは!!供は?こんな季節に薄着で……裸足…何しに来たんですか!?」 温かい。人の温かさだ。 幻覚ではなく、これは本当の左近なのか。急速に戻る視界に伴い、思考の霞が晴れてゆく。 ここは左近の屋敷だ。 濡れた服を脱ぎ、左近の着流しを借りた頃にはすっかりいつもの自分に戻っていた。 「表で声がすると思ったら殿が居て、その格好、慌てないわけないでしょう」 「……すまぬ」 真剣な眼差しから思わず目を反らす。 凍傷になった手足に包帯を巻いて貰いながら、必死にここへ来た言い訳を考えていた。死ぬと思えばこそ言えた事も、助かってしまえば良い辛い。 「で、そろそろ言い訳は考えつきましたか?出来れば色っぽいやつでお願いしますよ」 「なっ…!?」 「見れば分かりますよ。言いたくないんでしょう?なら聞きませんよ」 「俺が腑抜けたかも知れないとは思わないのか?」 左近の目を睨みつければ、怪訝な顔を返された。 「腑抜けた…って、その意志漲る目で言われても説得力がないですがね」 「……」 「例えここに来る前の殿がそうだったとして、今違うなら俺は良いです。それとも殿は今、止まる気ですか」 「ッ、止まらぬ!」 ほら、と左近は笑って話は終わった。 どうしても謝らせまいとする左近の姿勢に少し疑問を感じたが、 言わない事で戒めにしろというきつい助言なのかもしれないと思ってそれ以上は何も言わなかった。 左近が思い出したかのように伸びをして立ち上がった頃、空は白んで、すっかり雨はあがっていた。 まるで雨など降っていなかったかのように振る舞う白々しい空を見て、何となくそういう事なのだろうと思った。 太陽は暖かいけれど、空が暖かいわけではない。だが一日が過ぎて朝になれば、空は我が物顔で太陽を迎える。 左近を振り返れば、頷いて、そして心から安心する暖かい微笑みを向けていた。 ※※※※※※※※※※※※※※ 殿、ただの夢遊病説濃厚☆ ―戻る―