梅雨の季節の雨は、普段のそれとどこか異なった印象を与える。
水であるのにちっとも冷たくない様に見え、触れて見ればやはり少し温い。
晴れた後にからりとした空気ではなくじわじわとした湿気を残し、空もまだ物足りなさそうに分厚い。
気分までもが誘われるようにどんよりと沈んでくる。
そんな空気を薙ぎ払うように筆を走らせれば、書かれた文字がじわりと滲んだ。
無表情のままにその紙をくしゃりと丸めて側に捨てる。畳に当たった紙は、音を立てなかった。

(あぁ、上質な紙だと言うのに)

視線をその紙に向かわせたまま墨をすっていたら、視界の端に影を捕らえた。

「殿、いらっしゃいますか?」

左近の声は、普段の色を欠いていない。
だから俺の機嫌は悪くなる。
答えも刺のある物になった。

「何の用だ」
「面白い物を手に入れましてね」
「わざわざ見せに来たのか?」

やっと紙から視線をずらし、障子に写る左近の姿に目をやる。その影は平素の彼と変わらず……いや、不自然に笠が大きい。
左近は大きな笠を見せにきたのだろうか。

「……何だその笠は」

障子の先に居た左近は、俺の言葉に苦笑した。

「とりあえず襖、開けて頂けませんか」

体を動かすのは億劫だったが、立ち上がって襖を開いた。
その先の廊下から一段下がった庭に立つ左近は、想像していたのと少し違う格好をしていた。
被っていると思った笠は長柄がついていて、手で持って使うものらしい。
そう、それこそ阿国が振り回している舞用の芸術品のようだった。

「水避けの油が紙に塗ってありましてね、紙なのに雨を避けられるんですよ」

今の殿には必要かと思いまして。
悪戯っぽく笑った左近が少し憎らしかった。

(見透かした用に物を言う……)

実際、雨──というかこの季節にうんざりして、嫌気がさしてきていただけに、さらに拗ねてしまいたくなる。

(流石に俺とてそこまで童ではない)

「こちらは殿の分です」
「……」

手に握らされた物は左近の持っている物と同じ、不思議な笠だった。

「これを、俺に?」
「はい。呂宋という所から輸入したものらしいですよ。最近は…」
「違う。俺に、どうしろと?俺は忙しいのだよ」

俺の睨みをさらりと交わして左近は、誰ぞ殿の履物を、などと小姓を呼ばわる。
不思議な面持ちながらも、小姓はすぐに履物を持って来た。
そして俺の顔を見るなり、怯えた様に去って行った。

「何という無礼な態度を取る奴だ」
「殿の顔が怖過ぎるんですよ」
「左近はにやけ顔だが?」
「俺は特別です」

さぁ、と綺麗に履物を整えて誘うので、仕方なく足を通した。
屈んだ時に頬に触れた髪が酷く欝陶しかった。

「それで、何処まで何をしに行く?」

左近が先を進むので、ただそれに着いて行く。だが、左近の進み方はどうにも要領を得ない。

「本当は、この笠を殿に差し上げるだけが目的だったんですよ。ですが、余りに殿が鬱々としてたんで」
「……そうか」

ぽつぽつと紙に雨が当たる。
それなのに雨は染みる事なく雫となって俺の足元に落ちて、土に混じる。
その音を聞いていたら、不思議ともやもやとした気持ちはおさまっていた。

「俺もこの季節には何だか余り明るい気持ちになれないんで、殿の気持ちは分かるんですよ」

低い声でそう呟く。
左近は道傍に咲く紫陽花を見つめていた。
紫陽花は、低い背丈で、寄り添うように花を咲かせていた。
こんな、雨の中で。
そして一面青紫の花が並ぶ中、たまに赤色のものがある。それを左近は指差して問うた。

「たまに、赤い花があるじゃないですか。あれって何でだか、知ってますか?」
「……咲く地が違うと、花の色も変わる。俺の故郷は薄紅色だったからな」

俺はね、と言って左近は少しの間言葉を繋がなかった。
よく見れば確かに、今日の左近は普段と違う。そう思える程に自分は平素の感覚を取り戻していた。
まるで左近からそれを吸い取ったかのように。

「……印なんじゃないかって思ってるんですよ」
「何だ、財宝でも埋まっているのか?」

一笑に付すと左近も笑ったが、どこかぎこちない。不意に心が締め付けられるような不安に陥った。

「もし。万一にも起こり得ない事ですが、もし、」

赤い紫陽花が、雨に討たれて一際大きく跳ねる。
左近の声は淡々と続いていった。

「左近がそこに居るとしたら、殿は」

雨音が、一段と大きく。
声は、聞こえなくなっていた。
見えたのは唇の動きだけ。

(探して下さいますか?)

膨大な音による無音が、その場に流れる。
履物から、じわりと雨が染みて、自分の背丈が縮む錯覚をした。
暫くは時が止まったようにそうして立っていた。
先に動いたのは俺だった。
左近に詰め寄って、耳元で叫ぶ。

「全てひっくり返して隅々まで探す!そして直ぐさま叩き起こしてやる」

知らず声は裏返って、返って来た返事は素っ気ない、ありがとうございます、の言葉のみだった。

「大体、紫陽花が育つのにどれだけかかると思っている。花が咲く前に左近は俺に見つかるぞ」

語尾は雨に消えていた。
左近は、探さないと言って欲しかったのだろう。
探す事は立ち止まる事だから。
俺が紫陽花を探せる時、俺には今以上にやる事がある。
俺は前に進まなければいけない。
紫陽花を探してる時間はないはずだ。
理解してはいるが、口に出すのはやはり抵抗があった。

「今、やる事は、このような議論ではないぞ、左近」

言葉にしてから、次に兼続や幸村の顔を思い出す。亡くなった秀吉様を。まだ幼い秀頼様を。そして、憎き男の顔を。
不意に書き心地の悪い紙が酷く頼もしい物に思えた。

「帰るぞ」

左近は小さく笑って、そうですね、と言った。いや、言わなかったのかもしれない。俺はもう歩き始めていたから。
でも左近はそう言っただろう。
或いは小言の類いを。
どれでも構わなない。
ただ一つ分かるのは、俺の後ろに頼もしい足音が聞こえた事だけだった。



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何かすいません(誰にたいして謝ってんだ私)(治部に対してと読者に対してです)
左近は武人だから戦場を死に場所って決めて腹くくってる気がして、
だから左近が気にしてんのは自分の死じゃなくて、その後に残される三成の事なんじゃないかと。
出来れば戦で死んだ自分を振り返らないで前に進んで欲しいなって思ってるんじゃないかな。
口には出さないけどそれが出来る人だって信じてるだろうし。
でも多分ちょっとは探して欲しいと思う乙女心(乙女じゃないし)
雨だからちょっとセンチメンタルな気分になってもいいじゃん!




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