気配を掻き消すような雨音。
強くもなく、弱くもない。無表情にただ降り続ける。
季節柄、すぐに体に影響を及ぼすとは思えないが、雨を含んだ服は重く着心地は悪い。
そんな中、林冲は何かを探すような目で、一人疼くまっていた。大地を見つめながら。



「……」

じゃり。わざと足音をたてる。緩慢な動きで林冲は音源を見た。
最初は足。段々と視線は上がっていき、私と目が合った所で止まった。

「……」

一度ゆっくり目を閉じて、また私を見た。そしてすぐ、視線を元へ戻してしまった。

「林冲」
「助かった」

言葉に重ねるように低い声が聞こえた。
雨だと言うのに、酷く掠れた声。
誰も来ないこの場所で、喉が枯れるまで何かを叫んだか。もしくは、あれ以来一切口を開いていないか。
どちらにせよ、言葉には明確な拒絶が現れていた。その様子はさながら殺気を放つ獣。

「私は」
「笑いに来たなら笑え。礼は言った、他に用件があるのか」

(言葉の毒にあてられそうだ)

それは怒気。林冲の体を覆う鎧。
鎧の下には必ず、守らなければいけない弱い所がある。林冲の場合、それは情というものらしかった。
妻、張藍。林冲が守れなかった女。
どういう女だったかは知らない。知りたいとも思わない。実際、それはどうでも良い事だ。
重要なのは、その妻を林冲が愛していたと言う事実。
武に置いては壮絶な強さを誇る林冲だが、皮肉な事に心が鋼というわけではない。
ある意味強いとも言えるが、それは愚直なまでに真っ直ぐだ。
竹はしなり、嵐を凌ぐ。だが、硬度で勝る岩は、限界を超えると、壊れる。そして戻らない。
林冲の心が折れたまま帰って来ないとは思わないが、傷を癒すのに時間はかかる。まして一度癒した筈の傷なら尚更だ。

(敵ながら、見事な策だな)

おそらくそれは、私には効かない。私に、林冲にとっての張藍のような相手はいない。
さらにそんな仲間を見て、同情する事もしない。一戦力としてみると、優秀だ、と顔には出さず笑った。

(だが、私は羨ましい)

何かにひたむきになる心。全てをかなぐり捨てる程の激情。瞳に灯った最も人間らしい輝きは、眩しい。
眩しくて、酷く手を貸してやりたくなる。

(お前を笑う事が復活を早めるのなら、私は笑おう。罵る事もしよう。しかし、今は、違うようだ)

いつも通りの無表情のまま、どうやら暫くの間立ち続けていたようだ。
林冲は、私をないものとしている。
私達はまるで一枚の絵のようにその場に立ちつくしていた。
林冲の肩から脇に巻かれた包帯。滲む赤。こめかみから鼻筋にかけての傷痕。
いつもは無造作に束ねられている髪は、ほどかれて顔や肩に張り付いていた。
ごほっ、ごほ
不安定な均衡を崩したのは、林冲の咳だった。苦しそうに体を丸めて、私から見えないようにしている。

「私は、邪魔か」

痛々しい姿を見下ろしながら、私は返答を予測していた。林冲は是と答える。それしか答えがない。

「邪魔だ」

やはりな。

「しかし、私は居るぞ?」

だから私も予定調和の答えを返す。きっと次にくるのは怒りを隠そうともしない肯定の言葉。

「分かっている。だから困っているのだ」
「そうか」

ようやく林冲が立ち上がって正面から私を見た。思いの他、瞳に退廃は見られなかった。

「お前の存在は、俺を弱くする」
「梁山泊がではなく?」
「お前だ。お前以外の誰でも有り得ん」

苛々とした声が、当たり散らすように吐き出された。上手く、言葉に出来ない。そんな気持ちが如実に表れていた。
突き詰めて言えば、おそらく『気が通づる所がある』という事なのだろうが、どうも釈然としないのは私もだ。
だから私は深く考えるのを止めているのだが。
林冲はそうもいかないようだ。

「お前は、ただ在るだけだ。ただ在って、何もしない。それで俺は弱くなっていく」
「弱く、か」

それを弱さと取るか違う物と取るかは、人によるだろう。私はそれを、強さだと取る人間が居る事を知っている。

「在るだけなら木と同じだ。無視をすれば良いのに、それが出来ない」
「……待て、林冲。今まで私の事を考えていたのか?」
「お前が来るまでは、妻の事を考えていた……いや、全てに中途半端な俺の事かもしれんが」

雨足が、強くなってきた。気が付けばあたりは暗く、来た道すら見えない。月はなく、星もない。
夜目がきく私の目でも、数歩先にいる林冲を見るのがやっとだ。

「豹子頭林冲が、中途半端か。それは嫌味だな」
「……結局お前は何をしに来たんだ?」

雨が、更に勢いを増す。
定期的な轟音のせいで、逆に静寂とも取れる空間が広がり始めていた。

「普く事象は、一次元的なものではない」

かろうじて聞こえるか聞こえないかの声でそう言い、林冲の腕を掴んで歩き出した。
このまま夜通し立っているわけにもいくまい。側に倉庫があるのは知っている。
見えてはいないが、大体の予測をつけてそこへと向かった。



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