無垢という光の続きです。



「八万だと!?ふざけているのか!」

ばしん、と鈍い音がして、木簡の止め具がバラバラと壊れて落ちた。
その音は何か酷く嫌な物を想像させて、私は初めて荷の重さを感じたのだ。



[はじまりの戦]
六十六年



王が初めて戦場に立ったのは、十三の時だと言う。
大方見ているだけであったらしいが、それでも人を斬ったらしい。
その頃私は、裕福な家庭で家族に囲まれ、穏やかで平穏な暮らしをしていた。
知識を求める事に必死で、時々行商に混じって国を出たけれど、
それだって人の生死に関わる行動をとったことはなかった。
どこか遠い文献の中の世界だったのだ。

くそう、分からん、と言って王が前髪をかきあげる。その瞳は普段と違って、何処か落ち着きがなかった。

「王」
「煩いっ!……あ、あ、いや、すまん。しばし待て、今、気を沈める」

目を閉じて一度だけ深呼吸。それで王の瞳は普段の冷静さを取り戻していた。

(しかし、手は震えたままなのですね)

ばらばらになった木簡を持つ手は、小刻みに震えたまま。
その理由は私には慮る事は出来ない(だって王と私の育ちは悲しいまでに違うのだから)けれど、
震えと言う事実はかえって私を冷静にさせた。

「俺には分からん。二十万近くの兵力を出す余裕がありながら、帝国は何故八万しか出して来ない」
「それは……」

眼下に広がる地図に目をやる。竹で作られた駒には様々な将の名が書かれ、その大きさは兵力を示している。
当初、斥候に戦の気配を示唆された時、兵力は十七万だった。こちらが出せるのはせいぜい十万が限界。
それも本当に十万を出してしまえば、以後数年は何も出来なくなってしまう。
だから、実際の所八万が正確な数だったのだ。
その中で、帝国が出した兵力が八万。まるで示し合わせたような数字だった。

「数が拮抗すれば、蓄えの少ない俺達が不利なのは分かる。しかし、どうも得心がいかない。
八万で長居するより十七万で一ひねりにしてしまった方が金もかからないではないか」
「確かに、鶏を裂くのに牛を裂く刀を使う……とは言ったものですが、それは時と場合によります。
全てが兵法通りに進むわけではありません。王もそれを戦場でお感じでは?」
「まぁ……そうだな。実際俺は戦場の匂いに従って行動しているだけだが」
「突き詰めて言えば、直感こそが唯一の正しい答えなのでしょうね。
それ以外の答えは、普く問いの答えにはなり得ませんから」

そう言う間、まるで絵画のように記憶にこびりついた惨劇が、頭を過ぎっていた。
部屋に入り込んで来た帝国の兵士達。迫りくる矢。
絨毯を掴んだのは偶然だったが、重いそれを持ち上げる瞬間、私は身を守れると直感していた。
兵士が取り落とした剣を拾い相手の首に突き立てた時、私は相手の死を直感していた。
しかし、逆に言えば相手はその瞬間、死を直感していた事になる。

(蓋を開けて、こちらが死の直感でした、では話にならないんですよね)

「大丈夫か」

袖口で額の汗を拭って貰って、やっと私が大量の汗をかいている事に気付いた。
心配そうに見詰めてくる王に感謝しながら、私は口を開く。

「えぇ、大丈夫です。帝国側の可能性は……少なくとも、二つ考えられます。
同数で圧勝出来る秘策を持っている、もしくは、八万とは別の兵を何処かへ駐屯させている」
「前者はともかく、後者は理解出来ん。この見晴らしの良い砂漠にか」
「いえ、流石にそのような不毛な事はしないでしょう。可能性として考えられるのは反対側の肥沃な大地ですか。
ですから、用心として王はこちらに残り、機転が効く将を前線に送り出すべきかと私は思います」
「機転が効く将……か」
「出来れば、何事にもあまり動じない型外れな発想を持つ方」

そうか、と言いながら王は虚空を臨む。おそらく、大尉は決定しているだろう。
軍事の総括である以上に、彼は動じない。
合理的である割には堅苦しくない発想の持ち主だと言う事が、話してすぐに分かった。
私の身上を聞いて数奇だと笑い飛ばしたのは記憶に新しい。

「大尉と弟達に任せよう」
「え?」
「何だ不満か」
「いえ、大尉に異存はないのですが」

そこで思わず口を止める。
利発そうだが裏のありそうな三男と、何処か頼りがいの乏しい次男の顔を思い浮かべて、もう一度王の顔を見た。

「身内贔屓ではない。確かに弟はでかい為りのくせにうじうじとはっきりしないが、
窮地に陥った時の落ち着きの無さは目を見張る物があるぞ」
「あの、目茶苦茶な事言ってますよ?」
「はは、良い意味でだ。何だかんだで諦めるのもうじうじとはっきりしないから、
最後の最後で開き直ってこちらも驚くような力を見せる」
「大体それ、窮地に陥る前提じゃないですか」
「陥らないなら陥らないで、三男が手腕を奮うさ。あの二人はそういう二人だ」

いつの間にか張り詰めた空気が消え、王の震えも私の汗もとまっていた。
からからと子供の様に笑う王のおかげで、私まで不思議と笑顔になる。
家族の話をする王の姿はとても暖かで、私も信じてみようと思える心になっていた。

※※※※※※※※※※※※

「上軍、下軍、それぞれ鶴翼に布陣して臨め!隣の者を見失わないように注意し、しかし固まるのを避けろ!」

上下両軍の伝令にそう告げて、眼前の視界が利かない砂漠を睨んだ。
帝国からの出立が確認された兵の数は八万。
そのうちの五万は大尉が守る地へ向かい、残りの三万が俺に任された地へと向かった。
雨の少ないこの地でも、特に乾きが酷い季節。砂嵐は予想の範囲内、と言えばそうだ。
砂に覆われた大地は風に誘われれば、いとも簡単に視界を塞ぐ。
まだ大した砂嵐ではないが、油断は出来なかった。
兄である王に『緊急の事態の可能性も視野に入れろ』と言われていたからだ。
俺の補佐をする弟は直ぐさま『固まるのは危険』と判断し、俺もその意見に賛成した。
瞬く間に兵は行軍中の数倍にも横に広がって布陣し、気付けば弟は全軍に緑色の布を配っていた。
多少の砂嵐でもそれで互いを判断出来るだろうという配慮らしい。

(俺より良く働いている……)

全てをしっかり俺に報告し、承諾を得てから弟は行動しているのだが、
その中継が無駄なのではと思う位に弟の頭は回転が早い。
今、この状況下で悶々と思考に浸る愚かさを自覚しないわけではないが、
俺の頭にひがみの様な感情が沸くのも当たり前である気がした。

(弟に、他意はないと言うのに)

「兄様、悪い報せです!」

すぐそばに砂煙がのぼる。
視界の注意を疎かにしている間に、耳元で男にしては高い声が響いた。

「斥候より、敵増援がこちらに向かって来ているとの報せです」
「規模と、こちらにたどり着く時間は」
「数は四万、先陣がたどり着くのに、早く見積もって二日だそうです」
「二日!?斥候は何故これまで気付かなかった!」
「四万、その全てが騎兵です。一糸乱れぬ黒騎兵、行軍の速さは歩兵の三倍以上との報告を受けました!」

(黒騎兵、だと?)

帝国に名高い、鎧や馬全てが黒で統一されている騎兵、それは帝国軍禁軍の証。

「兄様、今すぐに退却致しましょう!我が軍にはもう四万を相手にする余裕などありません!」
「無理だ」
「何ですって?」
「退却すら間に合わない。退却中に後ろから攻撃を受けたら全滅する事になる」

(これが兄の言う『緊急の事態』か)

俺達を滅して後、そのまま王国の一部でも刈り取ろう、そういう魂胆なのかもしれない。
いずれにせよ、俺達に残された道は、どれをとっても死が待っているという最悪の状況だった。

「では私に殿軍を任せて下さい!少なくとも半数は逃げられるでしょう」

弟の提案を、思わず感情的に批判しようとして、急に焦りが増した。

(だが、どうするのが正しいのか、まったく分からない!)

弟に、任せる?とんでもない。
そうすれば、弟は間違いなくここで命を落とす。そんな命令は俺には出来ない。
どうにか尤もらしい否定を考えるうちに、その案が到底無意味だという事に気付いた。
万が一数日足止め出来たとして、充分な抵抗が出来る王国の都市まで十日。
それを黒騎兵は甘く見積もって四日で来てしまうのだから、弟は自軍五千で六日を堪えなければいけない事になる。

(そんな事は不可能だ)

つまり、逃げられやしないのだ。

「おまえが殿軍をしても、何も変わらない。だから俺の側を離れるな、戦うしかない!」

弟の顔が俄かに明るくなる。
自分で提案したとはいえ、殿軍の重圧におそれていたのだろうか。
いずれにせよ、死は免れない状況だ。
だが、せめて有能な弟だけでも生きて国に帰さなければ。それが俺に課せられた責務のように感じた。

「馬は横からの攻撃に弱い、そこを突けば足並みは崩れるでしょうけど」

辺りを見回して打開策を探す。
ここには砂漠と砂嵐しかないのは分かっているのだが、それでも何か、何か有るはずだ。
焦る俺の視界に、白くはためく弟の外套が映った。


※※※※※※※※※※※

「王!報せです」

軍師が血相を変えて俺の元に駆け込んできた。
一つ前の報告で増援四万が弟二人の任せた地に向かったと聞いて、急ぎ俺の軍を向かわせようとしていたのだが、
そんな猶予もなく次の報告が届いたのだ。
息を整える軍師を前に、俺は乾く唇を舐めて、歯を食いしばる。

「帝国軍、七万、撤退した、模様です!」
「撤退……!?」

ごほごほと咳込む軍師の背中をさすってやりながら、俺は軍師の顔を覗きこんでいた。

「日差し避けの外套を一枚布に縫い合わせて、兵の半分を砂の中に隠したそうです。
黒騎兵は我が軍の隠れる横を通過し、そこを奇襲。
足並みを崩した黒騎兵は撤退を余儀なくされたと報告がきました。
弟君の勝利です」
「そ……そう、か、そうか!」
「えぇ、あなた様の見込んだ通……って、え、え?」

良かった、良かったと言いながら、俺は目の前の軍師を抱きしめていた。
弟二人に対する労いを、軍師にしても仕方ないとは分かっていたが、
この気持ちを共有する者が目の前の軍師しかいないのだから、仕方がない。
軍師は混乱したような声をあげていたが、次第に大人しくなってくすり、と笑った。

「私も、次男様には完敗です。まさか、砂漠に隠れるだなんて、予想だにしませんでした。流石、王のご家族です」
「そうだろう!俺の自慢の弟だ!」

もう一度強く抱きしめると、軍師は僅かに抵抗したので、手を離してやった。
駆け込んできたせいか、まだ顔が少し赤かったが、その顔には笑みがたたえられていた。
誘われるように俺も微笑み、弟達の帰還に備えるために軍師の手をひいて立ち上がっていた。

「あぁ、忘れていた」
「どうかしました?」
「おまえにも、労いの言葉をかけるべきだな。よく、帝国の思惑を読んでくれた」
「いえ、今度は全て弟君の手柄です。私は黒騎兵の出現を読めなかった」
「いや、くる、と僅かにでも気持ちに備えあればこその結果だ。何か望みはあるか」
過度な贅を望む性格ではないと知っていたから言ってみた言葉だったのだが、
それにしても軍師の望んだものは不可解だった。
『船』と、言ったのだ。それも砂漠に無縁な巨大なものを。何のつもりか尋ねると、さらに驚く返事が返ってきた。

「……では、この国にも壁を増やさねばなるまい」
「そうですね。それもお願いしたかった」
「おまえは本当にとんでもない奴だな」

弟君程ではありません、と澄ました顔で言うので、そうかもな、と意地の悪い返事を返した。
窓から城の外を見る。遥か遠く、弟達の姿が見えたように感じた。

(さぁ、この国に、新たな活気の風を吹かそうじゃないか!)

俺が思うと同時に、砂嵐が胡楊の森に吹き付けていた。



※※※※※※※※※※
戦に関しては、「え、有り得なくね……?」って突っ込みは無しでお願いします。
創作だから!異次元空間だから!



―戻る―